【車内放送】急行「津軽」(14系 電子音「ハイケンス」 上野発車後)

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  • Опубликовано: 20 авг 2024
  • 88年3月、上野-青森間14系急行「津軽」車内放送を収録。旧型客車、12系、20系、14系、485系、583系と様々な車両が使用されていました。停車駅も多く、上野駅発車後の停車駅案内放送は聞きごたえがあります。
    車内放送は「鉄道サウンド広場」(本館)で多数公開中!
    railway-sound.t...

Комментарии • 22

  • @user-fh9ym8lk5y
    @user-fh9ym8lk5y 4 года назад +12

    初めて北海道へ行った昭和61年8月に乗りました。ほとんど眠れずに青森に着き、青函連絡船を乗り継いで函館へ。貧乏旅でしたが、楽しかったなあ。あの夏に帰りたい…。

  • @user-zq9sh6xe2r
    @user-zq9sh6xe2r 3 месяца назад +2

    懐かしい急行津軽の車内放送&室内音♪…涙が出るほど懐かしく聞かせていただきました。
    12系や20系座席で辛い…なんてなんと贅沢な!(笑)…私は旧型10系や43系座席に乗車しました。それはそれで、子供心ながらにすごい贅沢な時間でした。
    1972年6月に神町(なんでこんな辺鄙な駅に停まるのかも、とってもフシギでしたが…笑)から上野まで家族で乗ったことが思い出されました。降りた上野で、津軽の先頭にあった、大きく無骨なデッキ付きのEF57の茶色い車体が、今でもありありと甦ってきます。
    私ごとで失礼しました…

  • @user-of7cd1nz5u
    @user-of7cd1nz5u 3 года назад +20

    私は42年1月に秋田県大館市で生まれ
    ました。
    家には父と母、2歳年上の兄がいましたが、暴力と暴言をふるう父に見切りを
    つけた母は、2歳になって間も無い私を連れて、「急行津軽」に乗って12時間
    かけて上野駅まで行き、名古屋に住んでいた、すぐ上の姉の家族を頼って、
    東京から名古屋まで6時間、
    (新幹線は利用しなかったと思います)
    合わせて18時間、丸一日かけて逃げて
    きたのでした。
    その時のことを私はほんのわずかしか
    覚えていませんが、普段甘えっ子の私は、唇をキュッと噛み締めて、荷物が
    多い母の後をトコトコとついて来たの
    だといいます。
    私の記憶に残っていることは、
    名古屋に向かう列車の中で、
    気持ちが少し緩んだ私は、兄ちゃんが
    いないことに気づきました。
    私は母の膝に頭をもたれながら、
    「ママ、兄ちゃんは来ないの?」と
    尋ねました。
    母は少し困った顔をしました。そして、
    「お兄ちゃんはね、来ないの。もう会わ
    ないのよ」そう答えて、遠くを見つめ
    ました。
    普段から兄とは仲が良くなかった私の
    心は、その時あまり動きませんでした。
    そして母に「ママいる?」「ずっといる?」と尋ねました。
    母はニコニコして私を見つめながら、
    「ママいる?って、いまいるじゃないの。ずっといるに決まってるでしょ」
    と言うと私は楽しくなってきたのです。
    「じゃあ本読んで!」と頼むと、母は
    「ハイハイ」とカバンから絵本を取り出して読みはじめました。
    その絵本は「町のネズミと田舎のネズミ」だったと思います。
    (あとで聞いたことですが、兄は父が
    手離さなかった「出ていくなら男の子は
    置いてけ」と言ったそうです)
    その時のことを、母はすぐ上の姉さん
    (私にとっては叔母さんですが)に話すとき、
    「子供って、親がいるだけで安心するのね。どこにいたってすぐに寝ちゃうの。
    可愛いなあと思って」と言うのを何度か
    聞いたのを思い出します。
    それから私と母は、しばらく名古屋の
    姉さんの家でやっかいになりながら、
    母はまもなく仕事が決まり、二人の
    暮らしが始まりました。
    雪深い秋田と青森の県境から、春が
    来るのを待って、まだ一人でおシッコ
    に行くのもおぼつかない小さな私を
    連れて逃げて来たとき、母はどんなに
    不安だったでしょうか?
    そして、何も分からずただただ親の存在に安心して、眠りにつく幼な子がそばにいることが、どれだけ心強かったことか。
    今の私には痛いほどわかるのです。
    私は外側からの思惑や、いくつかのカク
    シャクにとらわれて一昨年前に亡くなった
    母のことをまだわずかながら憎んでい
    ました。
    その自分の気持ちがとても嫌ではあり
    ましたが、なかなか消し去ることができ
    ませんでした。
    しかし、たまたま懐かしさからRUclipsで見た、いまはもうなくなった「急行
    津軽」見かけて、あの東北訛りのアナウンスを聞いたとき、いっぺんに今までのこだわりが消え、号泣しました。
    この「急行津軽」、大館の実家へ
    遊びに行く時は欠かせない列車で、
    何度乗ったかわかりません。
    母と一緒のときは寝台車に乗せてもらえるのが嬉しく、私一人で乗るときは自由席でしたが、それもドキドキして楽しかった。
    (初めて一人で乗ったのは、小学3年生の時でした)
    最後に母と「津軽」に乗ったのは、たぶん17歳ぐらいだったと思います。
    その時はA寝台に乗りました。
    「次はグリーン車に乗ろうか」と言ったっきり、なかなか機会がなく、一緒に乗ることはありませんでしたが。
    懐かしさからついつい長文失礼
    しました。

  • @o.k1762
    @o.k1762 4 года назад +8

    36年前、津軽の自由席に新聞を敷いて東北地方から上京したことを思い出します。
    数年後、学生生活を終え故郷に就職して帰るとき、金をためて寝台車に初めて乗ったのも津軽でした。
    両方とも茶色のEF58が引いてくれていたと記憶してます。
    揺れるEF58のヘッドライトがなぜか印象に残ってます。
    気のせいかもしれませんが、白河に入ると東北のにおい、土や森林のにおいみたいなものを感じていつもホッとしてました。
    列車の自由席に新聞を敷いて乗ることもなくなった今の時代ですが、列車って人生の思い出に深く関係してること改めて感じました。
    特急やまばと、特急つばさ、急行出羽とともに思い出深い急行津軽のアップ本当にありがとうございます。感謝します。

    • @user-vo2nc1iu6b
      @user-vo2nc1iu6b 4 года назад +3

      あの頃は列車を待つときにはレジャーシートが新聞紙でしたものね

  • @user-vo2nc1iu6b
    @user-vo2nc1iu6b 4 года назад +8

    このころ乗りました小学生でした
    一人旅で大学生の人と列車で出会い文通しました
    よき思い出ですね(涙)

  • @user-zn5qd3yz6o
    @user-zn5qd3yz6o 3 года назад +2

    弘前まで使った思い出があります。
    秋田停車が20分位あったので駅そばを買いに行きました。

  • @user-kr1hw3tv1y
    @user-kr1hw3tv1y 3 года назад +3

    すげー長い座席急行……寝台車無しで22時から昼の12時まで、しかも10時間も走り続けだから……

  • @user-qu9do8ny6s
    @user-qu9do8ny6s 4 года назад +10

    素晴らしい動画ありがとうございます。88年・・・小学校高学年位でしたね。まだ国鉄の臭いがする車掌さんのしゃべり方で、初めて乗った八甲田号を思い出してしまいました。在りし日の奥羽本線まわり。本当に貴重だと思います。大切に保存されてください。今ではこんな列車を組成する事すら出来ません。各鉄道会社は富裕層を狙った列車ばかりで残念です。。。

  • @アークzzzz
    @アークzzzz 3 года назад +2

    この2年前の夏休みに、中学生だった自分は友達と北海道周遊券持って上野から乗りました。
    その時は確かB寝台車も連結されてたはずですが、当然金の無い中学生は座席で夜を越しました。
    山形辺りで一度目が覚めて、秋田で朝飯買いにホームへ降りた記憶があります。
    当時の元気な体力では青森に着いて遊び回って連絡船に乗れたんですが、今じゃとても出来ません・・・

  • @user-ci2th6zg3t
    @user-ci2th6zg3t 3 года назад +2

    12系客車の臨時津軽で川部まで乗って、五所川原から津軽中里までいったが、つらかった…

  • @nanalinn
    @nanalinn 4 года назад +3

    私は583系の津軽号に乗ったことがありますが、
    後ろが倒れない、高速バスより地獄でした。

    • @user-vm8yw3uh2v
      @user-vm8yw3uh2v 4 года назад +1

      私は臨時の12系ボックス席。青森までつらかった。

  • @user-gg5zu1td8m
    @user-gg5zu1td8m 2 года назад +1

    深夜た帯も停車駅があるから、秋田あたりまで行くと結構空いているかと思いましたが、結構な方が青森まで乗り通し北海道へ渡りましたね。

  • @supera6751
    @supera6751 4 года назад +2

    なつかしいです❗️

  • @user-kf5lo1kz2z
    @user-kf5lo1kz2z 4 года назад +5

    あと10年早く生まれてればな...

  • @user-fl6js5sv3x
    @user-fl6js5sv3x 4 года назад +7

    急行「津軽」子供の頃よく乗ったな(新庄まで)。その頃は旧型客車の時代で普通車はほぼ直角、かなりきつく感じた記憶が…
    今となってはいい思い出だけど(^^)

  • @user-sn6vb1fw2v
    @user-sn6vb1fw2v 3 года назад +1

    車内放送終盤の乗務員の氏名紹介で、運転士まで田端運転所の〇〇と伝えているのは珍しいですね。

  • @ZZZZZX11
    @ZZZZZX11 4 года назад +1

    90年代初め、お盆や正月の帰省時に何度か乗りました。当時は485系でしたね。
    夜遅くの発車でしたが夕方にはホームに大行列が出来ており、自由席の席取りは苛烈を極めました。
    通路やデッキは勿論、洗面所やトイレ、貫通幌の中にまで人が詰め込まれ、発車する前から出稼ぎオヤジ達の絶頂の酒盛りが始まります。
    一旦座ると朝になって乗客が降り始めるまで身動き一つ出来ず、オヤジ達が酔い潰れるまで延々と絡まれ続けるという恐ろしい列車でした。
    未成年だったのでしつこく勧められても酒だけは断りましたが、代わりにつまみのレーズンを大量に食わされました。
    もう二度と乗りたくねーと思っていましたが、今思うと貴重な体験でしたね・・・乗りたくはないですけど。

  • @user-jm9um5xt3r
    @user-jm9um5xt3r 4 года назад +2

    出稼ぎ電車か

  • @user-sw4vz2ol6w
    @user-sw4vz2ol6w 3 года назад

    寝台車ついとらん。

    • @railway-sound
      @railway-sound  3 года назад

      一時期20系客車使用してB寝台も設定されていましたが、座席需要が高く、自由席、指定席共に超満員。「おが」と編成を交換して14系座席車のみになりました。